榊 記彌栄のライブ見聞録

箏曲家 榊記彌栄の情報です。

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「ローカルということ#1-先ずはあまりにも抽象的な話し」

オバマ大統領は、これからは「ソフトパワー」の時代だと言っています。危機を乗り越えるためには「ソフト」が必要で、また乗り越えた後、残るのは「ソフト」であると。「ソフト」を構築できたものが、次代に花咲くと。
いま必要とされることは、次代の文化をイメージすることです。それは何か?

次代の文化について、その「地球化社会」に対応した文化は何か、私は「Trans-world Culture」というイメージをもっています。まだ漠然としていてその言葉が良いのかどうか分かりませんが、一昔前の「World Music」が示すものでは何か言い足らないので、便宜上その「World」の前に移動とか越境という意味を指す「Trans」を加えています。
何が「World Music」では物足りないのかという話しはこの際やめておきますが、「Trans-world Culture」という言葉で、次代の地球化社会におけるポリ・カルチャー的な展開のあり様と、現状のオルタナティブとして世界各地域における「ローカル文化」の復権と、その相互交流の姿をイメージしています。

ただし「オルタナティブ」という言葉については、この言葉を嫌う方も含め、さまざまなとらえ方があり、それこそ立場によって異なります。いずれにせよ昔風のカウンター・カルチャーと違い、白黒対抗して決着をつけるという平板なとらえ方ではすまされない気がしています。

話しをもとに戻しましょう。「Trans-world Culture」は、ローカル文化の復権という課題を前提にしています。その意味で、「Trans-local Culture」と言えます。

この課題は目の前の広島にも当てはまります。「世界」や「地球」を言う前に、先ず広島のローカル文化をどうつくるかという話しです。もっとも広島の特異性は、「ローカル」としての「広島」と同時に、「普遍性」としての「ヒロシマ」、その両者の課題を同時に引き受けていることであり、広島のローカル文化の確立のためには、その一部に、「ヒロシマ」の考察から導きだされる「地球化社会」における広島の立ち位置を意識した活動や振舞いが含まれていることになります。
広島のこの特異性は、強力な強みになるかも知れないし、結局、強力な匂いを放つローカル文化をつくることに失敗する元凶となるかも知れません。

それに世界各地域に「Trans」する無数の情報に影響される現在の文化状況において、ローカル文化の確立は、昔風のそれとは決定的に違ったものとなるでしょう。情報が世界のすみずみまでに浸透する環境に合った「ローカル文化」が構想されなければなりません。
もともと「ローカル」という言葉は矛盾を含んでいます。まず暗黙の前提として「中央」との関係や対立を含んでいること。もっと進んで、この言葉は常に他者との接触において現れるものであり、「アイデンティティー」という言葉と同じく、他者の存在なしではありえないこと、いや他者の存在そのものがローカルをつくるということです。そしてローカルの復権が、ともすれば偏狭な国家主義、民族主義、地域主義という幻想に煽られる傾向を含んでいることです。
他方、「*ローカル」を捨てて、人びとの日常の生すべてが同質な世界市民的一極普遍システムに吸収されれば良いという議論も極端で、それこそ危険なワナの匂いがします。

確かに「地球化社会」では、ある普遍的世界システムの構築や共有なしにはありえないでしょう。ここではそれを漠然と「*生文化的世界身体」とでも言っておきましょう。この身体は、世界の各地域に、自生的に振る舞うが矛盾を抱えるローカルを常に産み出します。そして産み出されたローカルはそれぞれ、自ら生きるために矛盾を越えて共存の条件を探り、自らを越え(Trans)て変身(Transform)します。そのことによってまたあらたに生文化的世界身体がつくりかえられるというイメージを描くことができます。
このように「ローカル」は、この「曼荼羅」的な世界身体の中で、それ自体固定化するものでなく、動いていくもの、まさに「Trans」していくものだと思います。(石丸良道)

*ローカル:この言葉を、個々の「固有の生」という意味でも使っています。
*生文化的世界身体:この世界身体において「ヒロシマ」は決定的な意味を持っていると考えます。
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