榊 記彌栄のライブ見聞録

箏曲家 榊記彌栄の情報です。

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~広島で行われたある国際文化交流イベントで感じたこと~

先日、アフリカのある国のミュージシャンとダンサーを迎えて、あるNPOが主催した平和文化国際交流関係のイベントに参加した。平和文化国際交流関係と書いたが、この種のイベントは…と一括りに言っては悪いかも知れないが…広島では「平和文化国際交流」というイベント・ジャンルが成立していると思われるくらいよく行われる類のイベントである…なにせ国際文化平和都市を標榜し、「平和文化センター」を中核に「平和文化」を推進している都市だから。
なにもケチをつけいるのではなく、それも他の都市にはない広島の特異性であり積極的にやればいいと思う。事実、参加したくだんのイベントも僕は実に有意義な時間を過ごしたと感じた。

ではそのイベントについて少しレポートしよう。イベントの基本的な構造として、国際交流というくらいだから、ゲストとホスト…この場合、アフリカのアーティストたちと広島側のメンバー(語り部の被爆者の方やNPOの活動家など)の間に、相互に「語り」や「メッセージ」の交換があり、そして「文化」の交換が行われる。このイベントの場合でも、最初、日本側のミュージシャンとこども合唱団によるウエルカムがあり、ゲストが紹介される。イベントの前半は、ゲストとホスト、お互いが体験を語り合うことで共感を醸成し、共通の課題を発見していくというシーンである。そして後半は、それぞれのバックボーンであるカルチャーを際だてながらも、イベントの趣旨にうまく合致した音楽やダンスなどの表現演目が選ばれ交換される。この場合、アフリカのある国で起こった大量虐殺を体験し自暴自棄なった主人公のシンガーソングライターが、数年たって「赦し」の自覚によって甦り、創作活動を再開して誕生した曲をメインに、民族的な唄とダンス(これには本当に感動した!)を組み合わせた…真面目だが極めて人を楽しませるライブと、広島側からは、小学生による素晴らしい合唱のプレゼントであった。個人的な趣味で言えば僕は合唱、特に西洋近代音楽的な文脈…つまりハイカルチャーとしてある合唱はあまり好きでないが…この場合、イベントに趣旨にふさわしく正当に選曲された合唱作品を、実によく訓練され、微細で真摯な表現で聴くことができ幸運であった。このようなまるで歌垣(うたがき)のようなカルチャーの応答交換…ここまでは上手くいき会場は盛り上がりハッピーであった。問題は「結び」の部分、最後のパートであった。
会の最後に、会場の全員で、ある「平和の歌」を歌おうというのである。たぶんこのイベントの総仕上げとして、ある一致した理念や感情また意志の予定調和的な共有のために会場全員で共同作業を行おうという意図であろうが、これが正直うっとうしかった。
歌のメッセージは、他人への思いやりやシンパシーから笑顔を伝え平和を願うというものであった。それ自体に文句はないのだが、表現がメッセージのためのメッセージとなっていると僕には感じられた。メッセージが絞り出され、必然的にそこから表出されるところの実体や身体が感じられない。そこにあるのは要するに具体的な「生」の背景が切り捨てられた虚ろな身体(普遍的言説空間)であり、それは実存在としての多様な人々の共感や感情移入を受け止めることができないのである。
広島の地では、これまでこういった機会で、善意ではあるが、こうした少し傲慢で押しつけがましい紋切り型の「絶対的正しさ」を強要されて息苦しくなるケースはよくある話しである。事実、多くの人は、それまでの自由闊達で上気した高揚感と多様な息づかいを失い(あのアフリカ・ダンスのせっかくの根源的かつしなやかでデリケートな息づかいも台無し!)、急に仮面のような表情となって単調な身振りでメッセージをただ鸚鵡返ししている…「ヒロシマ」が要請する国際文化交流のスタイルはこんなものだろうか?否、今こそもっと洗練された配慮が欲しいものである。

『平和学』における基本行動規範のひとつに、状況の中へ身をさらす行為という意味でexposureという言葉がある。これからの国際文化交流のスタイル…それは、世界の各地域、各民族のさまざまなバックボーンを担う人びとが、ある状況を共有しつつ、互いの差異を尊重しながらも自らをexposureし、相互に影響を受けながら生まれる新しい関係性のもと協働し、新たな状況を創造する活動スタイルであろう。
確かに「地球化社会」では、ある普遍的世界システムの構築や共有なしにはありえないだろう。だからといって、人びとの日常の生すべてが同質な一極普遍システムに吸収されれば良いという議論は危険で、たぶんそんなことを「ヒロシマ」は要請していない。
平和をめぐる言説や表現が、生きとし生けるものの固有性を曖昧とさせることなく、誇らしくも輝かしい「生」の上にこそ成り立つということを望む。

くどいようだが、上記はくだんのイベントについての苦言では決してない。惜しむらくは…というため息みたいなものである。事実、イベントの内容は大筋において納得のいけるものであり、感動的ともいえるものであった。その点、主催者の尽力に敬意をささげるものである。
(2010年7月・文責:石丸良道)
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